June 30

夏が来ると思い出す…

ではなくて、酔うと“自慢したくなる”話がある。過去のブログにも何度か投稿したかもしれないが、それは、
「タモリさんを生でみれたこと」なのである。しかも無料で。

話は1980年までさかのぼる。お茶の水の「東京デザイナー学院」に通っていた僕は、当時すごく仲の良かった「順一くん」という長野市出身の2つ年上の友人とつるんでいた。順一くんは同じアウトローの匂いを嗅ぎ取ったのか、授業初日から声をかけてきてくれて、何の話をしたのかは覚えてないが、即、友だちになった。それ以来常につるんでいて、帰りも一緒に帰っていた。西武池袋線「桜台」に住んでいた彼は、丸ノ内線で帰り、都営浅草線「押上」に住んでいた僕は、千代田線「新御茶ノ水」から帰宅した。

ある日。確か初秋の夕暮れ時だった。(夏が来れば思い出す。と言ってしまったが、初秋だった)一緒に、学校からお茶の水駅に向かって歩いていたら、御茶ノ水駅交差点手前(西)の「画材屋さんがあったところ」あたりで、小柄なおじさんを先頭に5、6人で楽しそうに練り歩いている集団とすれ違ったのである。
「あ、タモリだ」と、一発で気がついた。その時はまだ「笑っていいとも!」はやってなくて「オールナイトニッポン」で人気を博していた頃だったので、知る人ぞ知るで、それほど人気者ではなかったのである。蝶ネクタイをつけた取り巻きの方もテレビでみかけたことがある方だった。多分、その方が大声で、
「これから東京写真専門学校で講義します」と言っていたような記憶があります。

当時バリバリのテレビ人間だった僕は、迷わず「順一くん」に、
「戻ってみようよ。もしかしたら俺たちもみられるかもしれないから」と、学校は違うが、系列なので何とかなるんじゃないかなとの「一縷の望み」を託して学校に戻ったのである。

結果は読み通り、
「東京デザイナー学院生もOK」で、僕たちは普通の教室の最前列で当時いくつなのかは知らないが、バリバリの毒気の強いタモリさんをみることができたのである。
「いや〜、すごかったですよ」1時間笑いっぱなし、生まれてからあれほど笑ったのは初めてでした。当時は“名古屋人をデスったネタ”がメインで、
「ミャー、ミャー言ってるんですよ」とか、今考えるとそれほど面白くないと感じるのですが、当時は斬新で教室内のお客さん全員が腹を抱えて大爆笑でした。

ちなみに、生まれてから“2番目に笑った”のは、3男が通っていた「白鴎大学」文化祭でみた「バイきんぐ」かな。今のところ。“3番目”は知り合いの「洋やん」だな。僕の中では「大泉洋」に匹敵する面白いキャラの持ち主なんだ。

その経験からか、いまだにタモリファンで、テレビ番組で必ずみるのは「ブラタモリ」だけと言っても過言ではない。本当にあの方はすごい人である。

余談ですが、所ジョージさんも「東京デザイナー学院」時代に、「雑誌を作る」という授業の一環で、僕たちのグループは、すぐにやめちゃったロック好きの奴のゴリ押しで、「都内のライブハウスの魅力」を網羅する雑誌に決まって、各自ライブハウスに取材に行った。今思えばこれはすごくいい体験だった。覚えているのは「新宿ルイード」高橋店長さんにインタビューできたことです。その時早めに行って「岩崎良美」さんのライブもみたけれど、当時(というか今も)老けていて「FEN」の白Tシャツにデニムのベスト、下もデニムの僕を、スタッフと勘違いして、岩崎良美さんが、帰り際に、
「お疲れ様でした〜♪」と挨拶してくれたことは、今でも青春の思い出です。さらに、渋谷「テイクオフセブン」に取材に行ったら、その日は「所ジョージ」さんで、同様なルックスの僕に、
「お疲れ様でした」は、もちろん、何か取材されんじゃないかと悟って、
「待ってたの?」と気軽に声をかけてきてくれたのには、さすがにびっくりしました。あの時、いろいろ質問しちゃえばよかったなと思いますが、当時はそんな余裕はなかったです。野球部出身の「岩崎さん」という方がマネージャーだった頃のお話です。

「老け顔もたまには得をしますね」


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です