憧れのイタリア人

昔々のお話です。

おっさんがやりがちな事のワースト3に入る「過去の自慢」
今から書く話は、多分そう捉えられるだろうと思います。でもしょうがない。書きたいものは書きたいのだから。どうかご勘弁を。

1992 Paris

バブルが弾けてはいたが、まだ好景気だった1992年4月17日金曜日、僕はパリ19区ベルヴィルにいた。いたと言っても当時勤めていた会社の社員旅行パリ二日目であった。パリに夜中に到着してホテルでおとなしく寝て、翌日のパリ初日は何と鉄道がストライキでみんなでタクシーで凱旋門に行き、シャンゼリゼ通りを歩いて、その後各々自由行動をした。初めてのパリで楽しくて楽しくて一日中パリを歩き回っての翌朝だったので、足が痛くてしょうがなかったのを覚えている。子どもの頃から野球をやっていて毎日走り回っていたが、あんなに翌朝足が痛かったのは初めてだった。今思うと“フルマラソンを走った翌日”くらい痛かった。ホテル同部屋のAくんもまったく同じで、2人とも起きてから生まれたての子馬のように歩き、
「痛て痛て、痛て痛て」言っていた。

1992年のセーヌ川
1992年のノートルダム大聖堂
1992年のパリ19区ベルヴィル通り

Non non Non. je suis Japonais

さてパリ二日目のスタートをしようと部屋を出てエレベーターホールで、子どもの集団と出くわした。引率の先生らしき人もいたので、多分イタリアの小学生の修学旅行のようなものだと思う。その中の少女3人組が、1人の元気の良さそうな子を先頭に僕の方に、
「あっ、いた!」という感じで走り寄ってきた。そしていきなり早口で何やらまくしたてたのである。当然まったく意味がわからないので、両手を広げて“わからない”と大きなゼスチャー、そして思いついたデタラメな言葉で、
「ノンノン・ミー・ハポネ」と言ってみた。すると女の子は、
「ん?なんで?」という顔で驚いていた。そうなんです。彼女は僕をイタリア人だと思っていたのです。見知らぬ異国で同胞を発見して安心したのか、それとも何かを尋ねようとしたのか、勇気を振り絞って話しかけにきたのでした。

イタリアの女性は若い時はものすごく綺麗だ(歳をとるとみんな太っちゃうらしいが…)という話をテレビで聴いたことがあった、まさにそれを実感した。駆け寄ってきた少女たちはまるで天使のようだった。例えるとみんな「ハーマイオニー」のような感じだった。

それからノンノンはフランス語、ミーは英語、ハポネはスペイン語だった。通じるはずもない。

その一部始終をみていたホテルのスタッフらしき2人のムッシュと、同じエレベーターに乗り静かにしていたら、1人のムッシュがニッコリしながらこう言ったのである。
「ムッシュはイタリア人にみえるよ」と。

やっぱりそうなのか。と、すごく嬉しくなった。そして、
「よし!旅行中はイタリア人になりきって堂々と行動しよう」なんて思っちゃいました。そんな「憧れのイタリア人」のお話です。

最後までお読みくださりありがとうございました。

レストラン ラ ディファレンス

滞在中に2晩お邪魔したレストラン「ラ ディファレンス」の名刺。ガイドブックに載っていたので行ったのだが、日本語の雑誌が珍しかったらしくて、ご主人は興味津々だった。表紙の「パリ」が「Pris」なんだよと教えたら、笑っていた。そしてこのお店が載っていたその雑誌を記念にプレゼントしたら、とても喜んでくれた。パリだが「カリブ海料理」の店だった。当時の19区はイタリア人が多い移民の街だった。店の中には「DJブース」もあり、娘さんのことも紹介してくれた。最初に行った夜は常連客にジロジロ睨まれて怖かったり、ギターの流しがきて大騒ぎしたりして本当に異国情緒を満喫させてもらった。

1992年4月16日凱旋門

写真中央が私。右隣の女性はここで自分の絵を売っていた方です。女性が持っているパリの街を描いた絵を記念に買いました。その絵は友人が独立した時に額に入れてプレゼントしちゃいましたが、持っていればよかったなと後悔してます。


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です